公開: 2023年3月12日
更新: 2024年5月14日
現実の社会における封建的な社会階層と、宗教的な『神』の概念を別々に考えるべきだとする思想が、古代エジプトの王権の思想に対する反論として、エジプト社会の奴隷であったユダヤ人社会の中で生まれました。その宗教観を、一神教と呼びます。一神教では、神は唯一の存在であり、純粋な信仰の対象であるとされます。ですから、世襲される王権の裏付けにはなりません。
社会を統治する仕組みである王権と、信仰の対象としての『神』は、別ものであり、王権の世襲の仕方や、王権と王の血統との関係は変化しても、神は不変であり、変わることはないとする考え方です。ユダヤ教では、神はユダヤ人の「神」であり、それは唯一の神で、全知全能の存在で、善を為す存在です。キリスト教では、神は人間の『神』であり、唯一の神であり、全知全能で善を為す存在です。ユダヤ教とキリスト教は、少し違います。
一神教では、神が世界を創造したと考えているため、神を「創造神」とも呼ぶことがあります。そして、その『神』が人間を造ったと考えています。人間の理性は、神が人間にその力を与えたと考えます。ですから、他の動物には理性はなく、人間にのみ与えられている能力であるとされています。この一神教の根源的な思想は、古代ペルシャに生まれた、「ゾロアスター教」に起源があるそうです。ゾロアスター教の始祖であったツアラツストラは、それまでの宗教にはなかった、最上神「アフラ・マツダ」を救世主とし、最後の審判で、死後の世界で天国か地獄地獄への審判を受けることを述べました。
このゾロアスター教の教えは、バビロニアに捕らえられていた古代ユダヤ人に伝えられ、後に解放されたユダヤの人々に、一神教の思想を埋め込みました。そのユダヤ教では、善を為(な)す神とは反対に、悪を為す存在として「悪魔」(サタン)が存在すると考えられています。この考え方は、キリスト教徒にも引き継がれています。
このサタンは、神に対立する存在として考え出されたものです。論理的に言えば、神と2項対立する存在につけられた名前が「悪魔」です。キリスト教でも、この論法に基づき、「悪魔」が信じられていました。中世の「魔女狩り」や「悪魔祓い」は、そのような悪魔を対象として、悪魔から人類を守る目的で行われたようです。しかし、悪魔は、神の論理的な否定として仮想的に作り出された概念に過ぎません。旧約聖書のヨブ記では、悪魔の様々な企てにも拘らず、ヨブが、十戒の教えを守り、神への信仰を失わなかったことが書かれています。
ヨブ記では、悪魔の仕業によって、ヨブの身に様々な災難や不幸が襲い掛かるにも関わらず、ヨブは神の存在を信じ続け、「神はいない」とは言わなかったことを書いています。自分の子供が死んでも、それは全知全能の神が意図をもって、ヨブに与えた試練であるとして、悲しみに暮れながらも、神を信じ続ける姿が描かれています。ゲーテの戯曲「ファウスト」のファウスト博士は、悪魔の手先であるメフィストの誘いに乗り、若返って、この世の楽しみを満喫する生涯と引き換えに、死後の世界での悪魔への忠誠を誓いました。にも拘らず、死んだときに神の手に身を任せ、天に上る物語は、設定は全く異なりますが、基本的に同じ精神を描いています。
近代までの人々にとっては、一神教の神は、単なる概念上の存在ではなく、実在する存在だったと言えます。それに対して、「悪魔」は、つねに善を為す神の全て反対を考えた、仮想の存在だったはずですが、一般の人々にとっては、それも実在する存在と信じられていました。魔女狩りや、狼男退治は、そのような悪魔の手先を捕らえ、社会を平和で安全なものにするための、一種の儀式だったのです。
浅野順一著、「ヨブ記 - その今日への意義」、岩波新書(1968)
ゲーテ著、「ファウスト」1,2巻、新潮文庫(1968)